昭和45年3月10日 朝の御理解
御理解第99節 「無学で人が助けられないと言うことはない。学問はあっても誠がなければ人は助からない。学者が身を食うという事がある。学問があっても難儀をしておるものがある。此の方は無学でも皆おかげをうけておる」
無学で人が助けられぬという事はないと言われますことは、無学でも助けられるとというのであるから、学問があればもっと有り難い事だと思うのですね。真がなければ人は助からない。学問があっても真が問題、学問があっても難儀をしておるものがある.無学でも皆おかげを受けておる。学問があっても難儀をしておる真がなければ人が助からない。 真がなければという事は、真の心がなければと、真がなければ、そこでその真の事がわかるために、私は信心の学問がいると思うのです。
真の心、此の方の道は話を聞いて助かる道というのは、真のことを教えてくださる、いわば学問です。まあ学問といえば、教学と言うことをもうしますよね、だからあの、教学もありがたいけれども、今日私がいう、教学というのはね、真のことが分る学問。それは、分からなくても、おかげを受けております。ね、知らんでもおかげを受けております。けれどもね、お道の信心をさせて頂くものは真、真のことがわからなければならん。真の理が分らなくてはいけん。その真の理をあらゆる角度から、教祖は見やすく、または難しく、説いておられるわけですね。だから、その真の理が分る、ね、学問がなくてもですよ、助かりもすれば助けもされる。けれども真の学問。真の学問、真の理です。ね、真の理が分っておかげをいただければ鬼に金棒です。
ですから、真の理を人にも伝えることが出来る。ですから、その真の理を覚えなければいけん。だからどうしても勉強をしなければいかんです。私は毎日思うのですけれども、んー、本当にその御理解を頂いたあとに私もともに勉強したいなあと思うのです。その日の御理解を。
もう聞けば聞くほど分らせてもらうのですから、ですから、皆さんは一遍でも頂いても分らないと。ね。そういうものを分って自分のものにしていくという事。私は今日そういう意味で信心の学問というのは、無学というような意味ではなくて、ここでは、真の理を分って行くこと。だからまあ、ここで修行をさせてもらっている人たちだけでもです、例えば、朝の御理解を検討しあうた。もっともっと、深いありがたい理が分るだろうと思うて、毎日毎日、こうやって限りなく頂いておる御理解がですね、成る程、それがテープに残され、又はそれを記録にちゃんと、一元一句間違わないように、とらえてはおるけれどもね、それは、だから、のちのち本当に参考になるだろうと思うのですけれども、けれどもですね、それではですね、分らん所が分らんようになるです。
だから今皆さんが勉強をする気になるとです、私と一緒に勉強をしますとですね、分らんところは説明して上げれるし、私が分らんところはまた神様にお願いをして深く分らせていただくという事が出来るのですよ。
そういう意味でですね、本当に毎日、30分づつでもよいから、今日の御理解の感所、頂き所ここはどういう意味を含んでおるのだろうかと、言うようにですね、本当の事訳というかね、真の理というものをもっともっと追求して、朝の御理解なら朝の御理解の中から頂いていくそういう学問をです本気で見につけていったらいいと。
確かに私が、あのいなくなったらね、あの事でみんなが勉強で来ましょうけれども、んならあれの御理解で分らない所が分らないです。今なら分るです。ね。
ですからどうしても、金光様の御信心をさせてもらうとね、やはり御理解をいただくというだけではなくてね、それを勉強しなくてはいけまん。そして、そうだなあと一つ一つ学習付けていかなくてはいけません。ね。ただ、ぼんやり聞いておってもおかげは頂けません。聞かんでもおかげは頂くし。ね。けれどもなら、無学で人が助けられるという事はない。無学でも人が助けれらると言う事はない。
ね。ですから、学問があって、もっと助けよかろうと思うのです。そうでしょう。その、今日私学問というのはですね、信心の学問です、信心の勉強のことです。ですから例えば、助かるにしても助けるにしてもです、ね、ことのどうりをですね、解き明かしてやれれるという事。
ね。だから学問があればなお助かる事が分るでしょう。はあ、すぐ合点がいく。そんなものだと。昨日、二時ごろだったでしょうか、ここ下がって炬燵の間でテレビを見よりましたら久留米の佐田さんの若い奥さんのほうが、二度目のお参りをここへなさった方でした。その方をお導きして参ってみえられた。まあ、裏ですから色々、お話を聞かせてもろうたり、させてもろうたりさせて頂いたのですけれども。もうご主人という方が全然の無神論者だそうですね。
話を聞きよりましたら、無神論というのはね、実をいうたら有神論ですねあれは。だから無神論ということはどこに参った拝んだといったようなね、仕方のない信心を信じないのであってね、自分自身を信じるというのでから、信じるという事ですから、本当の真の信心が分ったらそういう人たちはすっと入って行く。
その私、大体が日田の山奥の方なんですね。えー、もう日田辺りでは昔から高塚のお地蔵さんというのは大変有名で病気をするといえばお地蔵さん、学校入学といえばお地蔵さんという風にして、お参りした、お参りされる、ほどしにやはりあらたかなんだそうですね。
それでそのそこに、お参りをして(?)するといったような事が、を信じられないわけなんです。御主人というのが。けれどもそういう中で、おまいりも出来ないのですけれども、最近子供さんが大変難儀な、病気にかかられたのです。そこでその、無神論である主人も、お地蔵さんにお参りすることを許される。それでその、お地蔵さんに願をかけておられる。
願掛けをしておられる。まあそういういろいろ悩みがでよっときに、本当にその佐田さんとは、奥さんとは遠い親戚に当たられますから、久留米に見えられてもう差しあわん本当に、一遍あの人を訪ねてもらいたいなあと思うておるところに、たまたま佐田さんがお出でられて、話をそんときに三時間くらい聞かれた。
まあだんだん話はわかられる。いわゆる信心の学問、ことの通りを話された。それでもありがたいといい、またお参りをして見えられて、昨日そのいわば、天地の通りを聞かせてもろうて、まあたとえていうと高塚のお地蔵さんも天地の親神様の中に決して高塚のお地蔵さんを馬鹿にするとか、どうちゅうことではないですけれどもね、もう高塚さんに御願をかけておるから参らんでいいでしょうかというところまで話はわかられました。
ね。これなんかはですね、信心の学問が出来ておらなければ、話してあげる事も出来ません。第一その、まあ、お話を聞きながら、本人がびっくりしておることは合楽の方達がね信心を始められるともう薬が縁がなくなるという事です。痛い痒いが治ったのがありがたいのではないいつもまめなのがありがたいというその、より本当のありがたさになっていくわけなんです。
ここではそうでしょうが、皆さん方そうでしょうが、もう考えてみると不思議です。あらもう十年、十年も薬を飲んだ事のなかよち言う人がいっぱいですここでは。
あれほど、医者にかかりよったのが全然医者にかからんようになったったいと言う人は沢山です。いつのまにか何とは成しにおかげを頂いておる。ちょいと頭が痛か、ちょいとかぜを引いたぐらいの事はあるけれども、ね、お神酒を頂いたり御神米を頂いたり、それこそ薬以上の薬を頂いておかげを頂いておる。
ね、それも改めて佐田さんが言われるように、ねその、一緒に見えられた方がです、ね、もう私は佐田さんところに行って一番びっくりする事は、あちらのお母さんが変わられた事だと。おばあちゃん。もう本当にお婆ちゃんばっかりは二人見ることなっとんなさるち。してまた、私共が知っておる限りではいつも、毎日のように薬とりじゃった。病院通いであったこともしっておった。
ところがその、全然薬を飲みなされん、医者が用意しなさらんかった、おかげを頂いておられるということを聞いて、はあ、もう驚いたというてから、驚いておられます。本当に。ね。
ね、そこからね、そういうおかげを受けておられる家庭というものを身近に見て、そして本当の真の利というものを聞かれたときにいよいよ分るわけなんです。ですからやっぱりね、おかげを頂いて、その上にです、何にも分らんでも、おかげを頂いて、ならおかげ話だけでもいいですよ、こげん、私の方には金光様の御信心するようになって薬一服いただかんおかげを頂いておると、これは、健康だけのこと、一事が万事、そのように、いつの間にかなんとはなしにおかげを頂いておると、というだけでもよいけれどもそういうおかげがどういう所から、頂けれるようになったかということをです、それこそ、理路整然として、お話が出来れるためには信心の学問がいるです。その信心の学問をですね、いうなら合楽では、もう本当に教祖の神様があのように、難しく、又は噛んで含めるように教えて折られるものをです、また、合楽ではそれをいよいよ、やっぱ学問つけておるようなものです。理論つけておるようなものです。
そして私がおかげを受けてその実証と、ともにですね、ご理解を皆さんにきいてもろうて、いわゆる、佐田さんのところのおかげを受けておられる事実と佐田さんの奥さんが話された信心の学問というものをです、あわせて見せる時にです、子の人が分らんはずがないと。頑固なまでに高塚のお地蔵さんを信じておられた方がです、なるほど、高塚のお地蔵さんを信じるというもう一つ向こうのものを信じると。
はあなるほど、天地の神様天地の親神様という方はそういう御演出の方であるという方が、分かられる。ね。だからね、無学でも助けられるけれども、それに学問があればもっと助けられる。また助かるということが分るでしょう。
今日そこの言行録を今日は頂く、ここん所を頂くんです。読んでみましょう。
「佐藤先生、教祖の元に参り高谷のものがはれ病にて近所のものがあれが治ったら首をかけるというから、是非助けてくだされい。私の命をかけてもよろしいといわれるを、西六その側におられ(西六とは西六の明神様ね 教祖の女のお弟子さんで一番最高のお弟子さんです。西六の明神様、丁度たまたま西六がお参りをして側におられたんでしょうね。佐藤先生がそういうお願いをしておられるのをそばにおられてです)西六その側におられ あんさんあんさん(兄さん兄さんとかいてあるね)そんな無理なお願いをなされるものじゃありません。あなたが一人死なれて一人助けても同じ事じゃといいたるに、あなたはどこのどなた、西六と聞きりて飛び下がりて拝礼したれたり。」
とあります。そのように西六が大変お徳を受けておられたのでしょうね。西六と聞かれたばかりに飛び下がって、その西六にお礼を言われたというわけなんです。
ね。もういうなら、医者が見放したような病人の事を、佐藤先生が教祖にお取次ぎを願っておられるわけなんです。そして、世間のものはあれが治ったら俺が首をかけるとまで、近所のものが言いよります。それで、私の命を絶って頂いてもよいから、あれを助けて下されと願われた。そしたら教祖が言われる前にそこにおられた西六がそういわれてあるわけなんですね。
一人を助けてね、一人が死ぬ。そういう無理なお願いはなさるなと仰った。佐藤先生は大変な学者ですから、その事が一遍で分られたわけです。皆さんはその意味がお分かりになるでしょうか、その意味が。
なぜそういうことかわかるでしょうか、まあそういうお願いがよくする人がありますよね。私がおかげを頂かんなら神様の顔にドロを塗るけんどうでんこうでんおかげをいただかにゃいけん、そのくらいのことで神様が顔を汚しなさるような神様じゃ絶対ありません。まるきり理詰めでお願いしよるごたるけれども、実際はそうではない。何故って私共が拝みよる神様は、天地の親神様なのだから。ね。そこを佐藤先生は、そう悟られたんです。
たいした事を言われる。西六の明神様だなあと思われた。私の命をかけてもよいから、これを助けてくだされいと。世間者がもしあれが治ったら首をかけるというようなことをいうものさえあるくらいですから。どうでも助けてもらわなければ、神さまの顔が立ちませんというようないみなのでしょう。ね。
親神様がです、親がです、ね、弟の病を助けて下されいと親方が願いよる。私の命はいらんからと。それで親が助けて下さるでしょうか。弟を助けたっちゃ親方が死んだらどうなりますか。おやの嘆きは同じ事なんです。ね、そこを悟られたんです。
これは天地の親神様と、私とも氏子とのその関わりあいというものをです、ね、私共がね本当にその理を分らせて頂いたら、そういう問題願いは出来なくなって来る。ね、理が分らなければね、理が分からなければ、いわばお願いの筋道さえ立ちません。
それが、分からんなりにね願うてもです、例えばおかげを頂いてもそれはおかげを頂く。ね、御理解30節に「神を信じるものは多いいが神に信じられる者が少ない」とあります。
ね、ですからなんにも分らんでもです、神様を信じる力のある人はおかげを受けていきます。ね。なら神に信じられる人というのはどういうことでしょうか。ね。いうなら、天地の理というか、どうりが分って、ね、そのどうりに従うた生き方をする人が神の信用を受けるわけなんです。神に信じられるというのはそれなんです。ね。ただがむしゃらに拝む。がむしゃらに願う。すがるということだけが、それは高塚のお地蔵さんでもおかげを受けておると言う事なんです。ね。けれどもその、理が分って、いうなら真の理が分って、ね、その、真の理いわゆるどうりにあった生き方、ね、そういう思い方。をさせて頂けれるおかげを受ける時に神の信用が付くはずですね。いうなら、ね、神様の心が分って神さまの心に添うた生き方をするのです。
神さまの御信用がついてくる。まああの氏子は間違いない。拝むこと(?)。御祈念力だけは強い。だからおかげは頂いておる。神を信じるもを信じると仰ったから。ところがそれでは神さまの信用はつきません。ね。はあこんなおかげを頂いたからというて神様から信用されておるということではない。今日は神を信じるものは多いいが神に信じられる氏子が少ないと言うことが分ったですね。
何にも分らんなりにおかげを頂くから、やっぱり神様ちゃござるなあと神様を信じる。やっぱ神様ちゃござるぞと。ところがその神様ちゃ、どういう神様なのか、その神様はどういう性質の神様なのかと段々事の性質を分からせてもらうとです、天地と私共とのいわゆる小天地といわれる、ね、親神様といい私共氏子といい、親神様と氏子との関わり合いというものをです、ね、いわゆる、関係を私共が利によってわかっていく。
いうなら親の心がわかってくる。だから親の心に添うていくから、ね、(?)大丈夫だというように親が子を(?)するように、神様もまた氏子を信用して下さることが分りますね。
だからどうしても学問が、出来なければいけんです。信心の学問が。ね。今日は私教学という意味合いではなくてです、ね、いわば、大学問ですよ。天地の大道理というものを身につけて行くということは。もう何よりもまして学問なんです。いうならそれを天地の法則とでも申しましょう。ね。または真理を追究するともいえましょう。ね。そういう素晴らしい学問を皆さんは日々なさっておられるわけなんですよ。ね。そこで今日の御理解は何て頂いたかというと、私が例えば皆さんに質問をする場合です、今日のところをこうこう頂きました、ここのところは分りませんでしたといったようなですね、もういっちょ学問をいわば予習復習を必要ではないでしょうか。
私がいなくなったら、なるほどテープは残るでしょう。ね、御理解集は残るでしょう。けれどもねあれだけではまあだ分らないことがある。皆さんが頂き違いをしておるところがある。だから私がまだおかげを頂いておる間に、もっともっとそのことを深くです、又は広く、ね、分っておく必要がありはせんだろうか。
そういう例えば天地の道理と、又は親神様と私共の関わり合いといったものを、まあ学問つけるといったようなものが、いうなら御理解なんです。
だからここで申しました、ね、例えばお願いお願いで、お願いの筋がちゃんと出て来るわけなんです。ね。又は人にお話をさせて頂くでもです、ね、筋道立てて合点がいくように、いわゆる違ったことを信じておる人たちにもです、それをね、解き明かして、分からせて上げることが出来るです。ね、ですからしっかり勉強をして、その勉強をしたこと稽古を一生懸命なさらなければ、私はそれは復讐だと思う出すね、いうならば。信心の稽古だと思うのです。
ためには自分自身が分からなければなりません。そこにかわからんと言う所があるなら、本当に何べんも何べんも私はお伺いをしてでも、自分の物にしていかんといけんと思う。無学で人が助けられんという事はない。学問があっても誠がなければ人が助からん。
無学で人が助けられんということはない。けれども、学問があったらもっと助けられるとここを分らなければいけない。真がなければ人が助からない。いうところをです、今日は真の理と、ね、真の理をが分らなければです、人は助からん。助け難い。
その真の理をです、私共日々頂いておる訳である。これは自分人を助けるということよりも自分自身が助かるという意味においてもです、ね、例えば、理が分れば分るほどです、お願いの筋というものが、はっきりしてまいります。ね。どうぞ商売が繁盛させてください。どうぞ病気が直させてください。というような例えば無茶な願いでもです、おかげは頂いても、ね、それではしかし、理がない。ね。けれども成る程、商売繁盛もよかろう。健康のおかげを頂いてくださいでよかろう。けれどもね、けれども理が分かるとですね、そういう願いではですやはり筋道が立たないと言うことが分るでしょうから、ね、おかげが頂きよくなってくる。
筋道のたったいわば信心が出来る。筋道のたった信心が出来るところに、今日は神の信用が付くと申しました。ね。それを御神徳というのですね。神様から信用をされる。ただがむしゃらに我いいたいことだけを言うて願うというおかげはです、それはなるほど神様を信じる力はだんだん強くなって来るしおかげを頂いてくる。成る程成る程と合点がいってきますけれども、これではね、神を信じる氏子は多いいがということだけであって、神に信じられる氏子が少ないという、少ない部類にはいりません。
私は少ない部類の方へ入らなければ本当の幸せはありません。ね。このことばお願いしますと片一方を犠牲にするような願いがいかに、神さまの心に叶わんことかということが分ります。けれどもまあ、まあ地団駄踏むようにしてから、願うからです、おかげになってもです、それは神様に信用されるようなおかげではない。
神様に喜んで下さってのおかげではない。ね。どうぞ、商売繁盛をさせてくださいそして、世のお役に立ちとうございますと。というようなと例えば願いが本当に出来るとするならばね、もうこれは絶対おかげです。そうでしょうが。世のお役に立ちたいという一生懸命の願いが、商売繁盛をさせてくださるのですから。ね。それがね理が分らんとね、そういう願いが切実なものになってこないです。世のお役に立たせて下さい、今年のスローガンです。その為に商売繁盛である、その為に健康を願うのである。ね。そういうことなんかもう本当に、一つ理が分るとねありがたい。いわゆる、おかげは和賀心にありというのと同じ事。これはね、もうそれこそ、天地の大法則なんです。神様が氏子の上に願うて願うて病まれないのは、どうぞ信心して和賀心になってくれよということなんですよ。
ね。私共が和賀心になることに精進をさせてもろうて、おかげを頂いていくという事はです、ね、神様に喜んで頂きながら、神様に信用をされながら、頂いていくおかげなんです。
いわゆる私が和賀心時代とね、とりわけ、今年あたりは、そういう大変な年柄に突入しておるのだという風にもうしますよね。だからどうでも和賀心学という学問ができれる。地球上に住まわせて頂いている人間の全てがです、ね、出来る出来ないは別として、まず和賀心学という学問を身につけなければ、いけないんだぞといったようなですね、働きがですそういう運動がです始まらなければならないところにです、現代のまあ、様相というかね、人間の知恵力で出来る幸せというものが、もう人間の限界というところまで進んだのにも関わらず、人間の幸せはそれではないことが分る。それをはっきり分かった時代なんだ。今は。今まではそうであったけれども、ね、本年というお年柄はそういう、まあはっきり分かった年柄なんだ。人間のちからで地球、星の世界にでも行けれるほどしの事の時代。そこに至ってです、ね、そういうことが出来るようになったから人間が幸せでないことがわかった。
それがはっきり分かった年なんだ。いうなら。その、人間の幸福と幸せとはそこで、和賀心だから、和賀心が誰でもわかるような学問が必要になって来る。ね。医学があり栄養学があるようにです、和賀心学というものが、ひとつどうでもいるのだと。その和賀心学をいうならば合楽ではあらゆる角度から説いてあると思うのです。
和賀心を目指す。為の学問です。ね。そういう学問が身につけられてそして、私はおかげを頂いていくというならばいよいよ鬼に金棒のいうならばおかげが受けられると言う事になりましょう。真が無ければ人が助けられん。ね。と言うことは、ね、真の理が分かって、ね、その真の理を私は行ずるところから、真というものがどういうものかということが分かってくるように、真の道というものもはっきりしてくるように、ね、そこを自分が行じて人に伝えるということ。そこに本当に人が助かるという佐田さんのところじゃないけれどもね。佐田さん一家がおかげを受けておるという事実を見せて、そして佐田さんがそのお導きをした人に三時間にも渡って天地の道理を説かれたとこういう。
ね、だから成る程なあ、そういやああんたのところは、本当にあんなに病院に毎日毎日薬もらいにいきよんなさったのが、それが出来なくなられて、第一お宅のおばあちゃんがあのように変わられたということは、驚きだと言うことになって来た。金光様の御信心ちゃそのように偉大だということが分ってきた。
人間が変わる。ね、財政がよくなる。ね。人間が変わってしまう。お医者さんとはいわばご縁が切れるようになる。
昨日そんな話があっておりました。佐田さんところかかりつけのお医者さんが何年ちかからんから、佐田さんところはようするに他のお医者さんにかかるじゃろちいうてから、向こうのお医者さんにいうてから、かかりつけのお医者さんが心配なさる。
それで他にかかっておるとじゃないこうして、健康のおかげを頂いておるというような意味合いの事をです、その、まあお医者さんに説明をされたという話がありましがね、そのようにおかげを受けておる。
ね、だから金光様の信心をさせて頂きよりますとですね、もうそれこそいつの間にかなんとはなしにですね、そういう意味合いにおいてはおかげを受けていく事は事実ですよ。ね、合楽で本当に十年も信心の稽古をした人ならそのおかげはみんなが頂いておるでしょうが。ね。金がいるとかいらないとかというようなことじゃないです。もうそれが全てのことにです、おかげ頂くので、それは金光様本当に頂きよってです、金光様の信心の理が分ったらです、さあ頭がいたいから直しに、胃が痛いから(?)いうようなことでは、本当におかげを受けていないのとは同じ事なのです。
ねそれがその、飲まんですむほどしのです、ねいうなら、痛い痒いがなおったのがありがたいのではない、何時もまめなのがありがたいというのが分からせてもらえる信心。ね、そういう一つおかげを頂いて、大いにねもっともっと学問をして頂いて、その学問の上にたったお道の信心。ね、そこに今日は私皆さんに申しましたように、信じることが強くなって頂くおかげは、それは神に信じる氏子であって、ね、学問が、信心の学問がその理が分っての、その理を本気で行じようとする、姿勢。そういう信心に必ず神の信用が付く。いわゆるそれを神さまの御神徳が受けられるという、話もいたしましたですね。
どうぞ。